福岡へ転校のきっかけとなった、フィンランド教育や対話や多様性を謳うちょっとへんてこりんな学校の、最後にとてもお世話になった担任の先生が学校を辞めていたことを知って、娘とその学校の話になる。 「はい、か、Yesしかない学校だったよね」と私がいうと、
「Yesしかなかったよ」と笑う娘。
笑ってネタにできるほど、過去を過去に、娘はちゃんと「今」を生きている。
一方、笑ってネタにしているようにみせかけて、「今」を生きているようにみせかけて、相変わらず「過去」を生きている。
ということに、目の前のいろんな事象が私に教えてくれる。
でも、もう乗り越えようとすることも克服しようとすることも一旦辞めてみよう、と思う。
想いをわかち合うという場面に出会すたびに、発動するカコ。
「子どもたちを管理するのではなく信じること
自由を守ることができれば、子どもたちは自ら学び成長する」
こんな感じの謳い文句は、不登校になっていた娘と私の救いに思えたという以上に、純粋にワクワクした。
多分、この謳い文句自体は、いまだにその可能性を信じているし、嘘だなんてちっとも思わない。
だけれど、現実的には、Yesしかない世界で、子どもたちを’自由に’放任したときに生まれるのは、資本主義社会をリアルに凝縮した弱肉強食の世界、と、少なくとも私や娘含め自ら去ることを決めていったり、退学に追いやられたりした人たちの目には映った。
多様性が大事なことには疑いの余地はないけれど、教育の現場で大人の適切な手が介入しない’多様性’が生み出すのはカオスというよりコンフューズ。
でも、同じ理想を描いて、同じような言葉で語る人たちの、「想いを語り合いましょう」「対話をしましょう」の誘いに嬉々として乗って、同じような言葉で語ったつもりが、「いや、ここでは(私たちの)Yesしかないんで」と、パシッと突き返された(と私が感じてしまった)衝撃は、「今」を生きているつもりになっている私を何度も「カコ」に引き戻す。
描く理想が近ければ近いほど、身構えてしまう。
また私は同じ体験を繰り返してしまうのでは?と。
そして、きっとカコにとらわれているままでは、きっと同じ体験を繰り返してしまうのだろう。
だから、「想いをわかち合いましょう」の場面に出会したとき、あぁ、私にはこの感情が発動するよね、と、ただその感情が生まれるんだな、ということだけ’眺める’ことにしてみる。
乗り越えようとすればするほどカコにとらわれてしまうトラップを一旦脇に置いてみる。
さて、4月は4月で完了させて、さぁて5月!
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