私の大学院の師匠であるゆき(大熊由紀子)さんが毎年開催する『えにしの会』なるものがある。 現場から行政まで、主に医療と福祉分野で、現状に風穴を開けて、よりよい方向へとアップデートする『でんぐり家』たちが登壇し、フロアも含めて語り尽くしてもらおうというイベントだ。
いまここに爆弾落ちたら、日本の医療福祉のよりよい未来が一気に吹き飛んでしまうのではないかという錚々たるメンバーが集う。
中にはゆきさんとの共著も複数ある上野千鶴子氏の姿も。
フロアからの質問では、厚労省の偉い人たちに、「現場レベルでの対症療法という現状にあって、行政はなにするの?」的な内容をぶつけていらして、「上野千鶴子さんという人はどこにいっても上野千鶴子という役割をわかって、‘サービス精神’を発揮する人だなぁ」と素朴に感心する。 会が終わり、会場を出ようとする上野千鶴子さん(この人を呼ぼうとすると、上野さんでも千鶴子さんでもなく、「上野千鶴子」というのがしっくり気がするのは私だけ?)にミーハー心で内心ドキドキしながら、声をかける。
『ミッドナイト・コール』という本が大好きなこと、何度も救われた夜があったことを伝える。 上野千鶴子さんという人のことを考えるとき、どうとらえてよいのか、もやもやっと霧に包まれる。彼女がやってきたこと、やってきたことの意味。 彼女は「私たち」の味方だったのか、味方なのか。 そもそもこの「私たち」って誰だ? 『ミッドナイト・コール』は、頭のよい女性が「あら、私も’あなた’の仲間よ」と伝えるために’やさしい’文体で書いた本といじわるな言い方もできるかもしれないけれど、私という人が何度もこの本に、この本の向こう側にいる上野千鶴子さんという人に救われてきた事実は変わらない。
上野千鶴子という人がいて、闘ってきてくれたことは、少なくともいま私が手にしている’しあわせ’と無縁じゃない。フラットな関係を築けるパートナーや、出産や子育てしながら「自分のやりたいこと」もあきらめない生き方は本当に望めば手に入らないものではなくなった。 もちろん日本のジェンダーギャップ指数を見れば絶望的な気持ちに陥るし、女性の置かれた立場はいまもそれほど変わっていないという見方もあるだろう。
一方、女たちが「既得権益」はそのままに「自由」を手に入れた感があるわりに、男たちの会社に縛られる「不自由」な生き方は相変わらず根強いようにも思う。 と書いて、いまの日本はいろんな階層のいろんな事情を抱え込みすぎていて、もはや十把一絡げに語ることが困難なのではという結論に落ち着く。
あの人の課題とこの人の課題には、差がありすぎる。
ここでふとえにしの会に登壇していた明石市長の言葉を思い出す。(うろ覚え・・・(-_-;)
「標準家庭」とは、お父さんが○○でお母さんが▽▽でおにいちゃんが□□で妹は△△で、奥には寝たきりのおばあちゃんがいる、と最低5つの支援を必要とするのが「標準」。明石市ではそれを「標準」と考える、と。
この「標準」から支援の数が1つ少なかったり、支援の数が1つでよかったり。いずれにせよ、「一億総中流」なんて幻想が抱けた時代が夢のように感じられるほど、格差は広がっている。そんな時代には、こちらのことを語ったときのあちらとの隔たりはとてつもなく大きい。 いずにれせよ、私の手にしている「自由」がパートナーの「不自由さ」の上に成り立っている間は、ニセモノの「自由」でしかない、ということだけはわかる。