運転する車中でたまたま流れていたラジオから、パーソナリティーの「元気で明るくて可愛くて、皆に愛される女子は最強ですからね~」的な内容の言葉が流れてきて、私のセンサーがピクリ。 この言葉自体に別に異論はない。
「まぁ、その通りだね~」とも思う。
でも、心がざわりとする。
元気で明るくて可愛い女子はクラスの人気者だ。
私だって、こういう女子は好きさ!
が、クラスの中の見えない階級分けは、「元気で明るくて、皆に愛される女子って最強だよね~」という前提というか、暗黙の了解というか、から始まるように思う。
東京のへんぴな田舎にある女子大に入ったとき、「元気で明るくて、皆に愛される女子って最強だよね~」という根強くはびこる強迫観念の影響をあまり受けない女たちの集まりで、その居心地のよさにびっくりした。
他人のことをよい意味であまり気にせず、淡々と我が道を行く女たちが集まると、「あの子は元気で明るくて、皆に愛されるタイプだよね~」と事実として受け止められて、単なる事実に終わる。
それぞれのよさがそれぞれに事実として受け止められて、フラット。
クラス一のガリ勉もよし、ギャルもよし、元気で明るくて可愛い女子もよし、モード系のとがったのもよし。
元気で明るくて皆に愛されるのもいい。
でも、別に元気で明るくなくったって、いいじゃーん。
そもそも皆に愛される必要ってあるの?と。
それぞれの価値がそれぞれに「いいねー、それ」となれば、「元気で明るくて愛される」女子自身をも巻き込んでしまう、苦しい見えない空気感から、女たちは解放されるんじゃなかろうか。
というわけで、ラジオとか影響力のあるところから、こういった空気感を再強化する言葉が流れると、センサーを働かせずにはいられない、というお話。