本を執筆する過程で、星つむぎの村の村人仲間である、重度の障害のある子どもを持つお母さんたちに取材させてもらったり、実際に泊まりがけで生活の様子を見させていただいたりした。
そのとき、たまたまとあるイベントを企画していらっしゃるまっさい中。
本当はすれ違う必要のないところで、「ことばの定義」やら「前例」やらによってものごとが阻まれることはよくあるけれど、まさに行政の意向とイベント主宰者としての思いがすれ違っている場面にでくわす。
思いがすれ違う場面が自身に起きたとき、私が自分で残念なのは、相手の意図がそうならば、たとえ思うところがあっても、「ご事情お察しいたします」と、その場でできることの範囲で穏便にものごとを進めたり、思いを伝える前に船から降りる道を選んだりしてしまうところだ。
のみこんだ思いは、いつかどこかでなんらかよいカタチで実現できたらいいねと、こころの引き出しにしまい込む。
実際、それぞれの立場のそれぞれのことを考えたら、それぞれに納得できることはあって、「ご事情お察しいたします」が発動するのだけれど、やっぱりうまく飲み込めないと息苦しくはなるわけで、
そうやって、スーッとそーっとだったり、当たり障りなくだったり、やっぱりごめんなさいだったりでフェードアウトして、できそうなことをできそうなところでできる範囲で、小さく積み重ねていく道を選ぶ。
それはそれで、そのなにかの小さな一歩が、次の一歩先でだれかとだれかをつなげて、さらに次の大きな一歩になっていることもあるし、引き出しに急速冷凍保存された思いは、だれかをエンパワーメントするときに経験値として活かされることもあるから、悪くはない。
が、本執筆のきっかけとなった重度の障害のあるともっちさんこと山下智子もそうだけれど、違和感を飲み込まずに真正面からとことん対話をして、相手の思いや立場を慮りながらも自分が納得する結果が得られるところまで絶対に引き下がらない彼女たちの生き様をみていると、眩しすぎてクラクラしてしまう。
かっけぇなぁあぁぁぁ。
もちろん彼女たちがときに傷だらけになっていることも知っている。
自分たちが切り開く先で、もっと多くの人がその恩恵に預かれることを知っているから、彼女たちはそれでも真正面から突き進んでいく。
のんきに、かっけぇなぁあぁぁぁとか言うとる場合じゃあなかろう!とのツッコミを入れながら、せめてこの人たちに恥じないわたしではあれるように、と、また襟を正す。
わたしはやっぱり彼女たちと一緒に生きていきたいんだよなぁ。
彼女たちと一緒に、泣いて笑って怒って笑って、今日もなんだかんだわるくない一日だったね、なんだかんだ愉快な一日だったねを積み重ねて。
彼女たちの愉快な仲間であれるように。
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